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2017年8月10日 (木)

那須与一 出生地、ルーツ謎だらけ

 下記ッは、2017.8.10 付の産経ニュース【坂東武士の系譜(29)】です。
                        記
 「射殺(いころ)すとはむごいことをされる」。弓の修練としてヒバリを射落としていた少年に、通りがかりの法師が声をかけた。弓矢を借り、その法師が射たヒバリは落ちてきたが、再び空に舞い上がった。「蹴爪を狙ったのですよ」
 法師峠(大田原市南金丸)を舞台とした昔話。少年は後の那須与一宗隆。与一はその後、ヒバリの蹴爪を射て弓の修練をしたため、この辺りのヒバリは蹴爪がないという。似た民話が国史跡・神田城跡(那珂川町三輪)の周辺にもある。与一は熱心に弓の技を鍛え、少年のころから弓の名手だった。
 大田原市には与一ゆかりの地が多い。扇の的を射たときに乗っていた「鵜黒(うぐろ)」が誕生した駒込の池(同市大輪)、源義経との主従関係を誓った義経の腰懸塚(こしかけづか)(同市余瀬)、扇の的を射た矢の材料、二股竹を取った直箟(すぐの)の森(同)などがある。
 ただ、与一の前半生を語る民話やゆかりの地の伝承を裏付ける史料はない。与一が生まれた場所は少年時代以上に不透明だ。(1)神田城(2)高館(たかだて)城(大田原市川田など)(3)大館(築地(ついじ)館(やかた)、同市黒羽向町)−などの説がある。那珂川町なす風土記の丘資料館学芸員、金子智美さんは「神田城周辺は古くから人が住んでいた。東山道も通り、交通の要衝だった」と説明。深い堀に囲まれた城跡は原形をとどめており、保存状態が良いとして昭和59年、国史跡に指定された。発掘調査では築城以前の住居跡も見つかった。

 神田城築城は1056年、1105年、1125年の諸説があり、与一が生まれた頃、那須氏の居城だった可能性は大きい。ただ、金子さんは「はっきりしたことは分かっていない」といい、同町はことさら与一出生地をアピールしているわけではない。
 大田原市黒羽芭蕉の館学芸員、新井敦史さんは「与一は神田城で生まれ、その後、父、資隆が居城を高館城に移したという見方はできる」と話すが、やはり確証はないという。
 ルーツも謎が多い。江戸時代の系図では祖先は藤原摂関家。“御堂関白”藤原道長の孫に通家(みちいえ)がおり、その子、須藤貞信から那須に入り、与一の父、資隆(すけたか)が那須氏を名乗り始めたとする。貞信は、八溝山の賊、岩獄丸を退治したという那須では伝説的な人物だが、県立博物館の江田郁夫学芸部長は「貞信と那須氏は無関係ではないか」とみている。「2つの家の系図を1本にして祖先は摂関家だと強調した」と指摘。本来、那須氏とは別系統の山内(やまのうち)首藤(すどう)氏の人物が系図の中に登場するという。
 山内首藤氏の系図によると、通家の子から首藤氏と那須氏に分かれ、那須氏は「資房(すけふさ)−宗資−資高(資隆)−宗隆」と続く。通家が那須の在地豪族と縁を持ち、資房は那須豪族の下で育つという姿が見えてくる。
 

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